感情にも境界線は無い ~「楽(らく)」と「楽しい」の関係を考える~
先日<あなた>と<私>には境界線は無いという事を書きました。
今回は物質的ではない感情、心にも境界線は無いという話です。
善か偽善か
日本人が海外のスタジアムで、試合後のゴミ拾いをしています。
あなたにはどう映りますか?
善ですか?偽善を感じましたか?
正解はありません。
見る人によって感じ方が違うだけで、善にも偽善にもなり得ます。
善、偽善はただの「概念」「観念」で、人が<差>をつくっているだけです。
宇宙や自然には 善、偽善はありません
サッカーは面白いもの?面白くないもの?
善のような抽象的なものだけでなく、具体的な物事に対する感情ではどうでしょう。
同じですね
サッカーそのものは面白いものでも、つまらないものでもありません。
面白い、つまらない はただの「概念」「観念」で、人が<差>をつくっているだけです。
相反しているかのような
「面白い」、「つまらない」の間には明確な境界線は無いんです。
各々が<差>をつくり、「面白い」「つまらない」という概念で表現しているだけです。
「サッカーは面白い」と決めたのは あなた です。
あなたが感情を選択している
普段の生活でもいろんな感情が出てきます。
楽しい、嬉しい、面白い、悲しい、寂しい、苦しい など。
感情が出てくると書きましたが、
自分で感情を選択していると考えたらどうでしょう。
物事そのものには楽しさも苦しさも含まれてはいない。
私たちが「苦しさ」を選んでいるのでは?
だったら「苦しさ」より「楽しさ」を選択すれば良いのです。
その方が「楽」ですよ。
なぜ「楽しい」が「楽」なんだろうか
なぜ同じ漢字を使うのだろうか。
小学校の時に同じ漢字だと習いますが、なぜ? とは考えもしませんでした。
しかし今、少し見えてきたかも。
「苦しさ」より「楽しさ」を選択すれば「楽」になる
これですか?
大昔の人もこう考えて、同じ字を当てたのですか?
ま そんな訳ないと思いますけど、
こういうことを考えるのも「楽しい」。